ベートーベン作曲の『エリーゼのために』は、彼が恋した女性エリーゼに捧げた曲だ。2人は恋に落ちるが、エリーゼは貴族の娘でベートーベンとは身分違いのために関係は許されず、やがて破局を迎える。
この曲の始まりは互いを愛しく思う慕情、そして後半の激しいところは周囲に反対され辛く悲しい想い、それらに対する葛藤を表現している……のだそうだ。
どうしてもあの時流れ込んできた感情の理由が知りたくて、手始めにとあの曲のことを調べてみたんだけど。そんな背景があったなんてオレは全然知らなかった。ただ、先輩はこういうことも知っているんだろう。ということは、先輩は自分の過去と『エリーゼのために』の逸話を重ね合わせてたんじゃないかなんてことが考えられる。もちろん意図的にそうしたのかはわからないけれど、少しくらいは感情移入していたはずだ……なんて。この間友人から聞かされた話とその後独自で調べたことも加味して、そんなふうに結論付けてみたけど。
だけど、例えその通りだったとして。どうしてオレが胸を痛めたり涙したりするんだ?
一番の謎が解けそうなのに解けなくて、スッキリしない。
「おい。心ここに有らず、かよ?」
先輩がピアノを弾くのを中断すると珍しく話しかけてきた。オレは頬杖をついてピアノの方へ視線を向けると、さも不機嫌そうな様子の彼を見つめ返す。
「先輩。エリーゼのために、弾いてよ」
なんとなくだけど、もう一度聴けば確かめられるんじゃないかと思った。
突然のオレのリクエストに彼は一瞬戸惑った顔をしたけれど、ピアノに向き合うといつものようにすぅっと深呼吸してから指を鍵盤に乗せて奏で始めた。
誰もが知っている有名な始まりにオレは耳を傾ける。そうしているうちに彼が紡ぎ出す物語に引き込まれていく感じがした。
明るく楽しさに満ち溢れた仲睦まじい2人だけの日々。永遠に続くかのように思われた幸せからやがて訪れる不穏。許されない恋と苦しみ、周囲からの批判。押し切れる力はなく気持ちは揺らぎ、翻弄され、そして常識という壁の前にして決意した別離。1人になり打ちひしがれる彼が夢見るのは楽しく美しく彩られた過去の記憶。
そんなイメージが音と共にオレの中へと流れ込んできて、苦しくて切なくて……堪らなくなる。
「……も、いい」
最後まで聴いて、それまで抱えていたモヤモヤの理由がようやく分かった気がした。どうしてこの曲でオレを悲しくさせるのか。そして、この場所に居てはいけないと感じるのか。思い返せば最初っから彼の態度に表れていたんだ。
「よくわかった……から。オレ、もうここには来ない」
「何、突然言いだしてんだ?」
訳が分からないとばかりに勢いよく立ち上がった彼から静かな怒気を感じて、間合いを取るべくオレは床に置いていたカバンを取り上げ肩から下げた。
「大体、お前がリクエストしたから弾いてやったんだろ? なのに何怒ってんだ?」
「別に……怒ってなんかない」
「俺にはそう見える」
一歩また一歩と近づいて来たかと思うと、突然伸びてきた腕にカバンが捉えられる。なんとかグイグイ引っ張ってみるけれど、手を放してくれそうにない。怒ってるように見えるのはオレなんかより先輩の方だ。そう思ったけど口に出しては言えなかった。
「放してくださいっ」
「だったら、ちゃんと説明しろよ」
「そんなことっ」
説明なんて出来るはずがない。先輩の曲を聴いて感じたことは全てがオレの妄想によるものだし、確証なんてものは一切ないのだから。勝手にオレがそう結論付けて思い込んでるだけの話だ。
至近距離から口ごもったオレを覗き込んでくるから、目が合わないように視線を逸らす。
「逃げるなよ」
「逃げてなんかないしっ、それは先輩の方だろ」
言われたことにカッとなって思わず口走っていた。自分の口を慌てて抑えたけれどすでに遅く、彼はオレの言った言葉に苛立ちを感じたのか眉根を寄せて睨みつけていた。
「……どういう意味だ? それ」
怒りを孕んだ低い声。繊細な旋律を奏でる手がオレの胸倉を乱暴に掴み、そのまま力任せに身体を押されて、オレはよろめきながら数歩下がって壁に背中を押しつけられる。
「俺が? 何から逃げてるって?」
「……っ」
「言えよ」
詰め寄られて強要される。押し返しても彼の力は思った以上に強くてビクとも動かない。
「忘れられないんだろ? だから思い出に浸ってるんだ」
「はぁ? 何、言ってんだ」
「1年前。付き合ってた人がいたんだってね。この学校の先輩で名前は藤宮 晴那(ふじみや はるな)って……」
「おまっ」
名前を出した瞬間に彼の手の力が強くなった。首元を押されると思ったように息が吸えなくて苦しくなる。だけどそれ以上に、胸の奥が痛かった。だけどもう止められない。
「現実から逃避して、記憶の中にだけ生きるってどんな感じ?」
自分自身でさえ嫌な言い方をしてると思った。こんなことを言われて怒りを感じないはずがない。だけど、それがわかっていても酷いことを言わずにいられなくて、彼を傷つけたいという衝動に突き動かされていた。
しんと静かになって、空気が張り詰める。先輩の腕から力が抜けて、オレは圧迫される息苦しさから解放された。
「お前だったのか。最近俺のことを調べまわってるっていう1年ってのは」
激しく罵られるのかと思っていたのに、予想に反して彼の声は冷静だった。
オレは友人から聞いた話だけでは不十分に感じて、ここ最近の間に僅かなつてを頼りに何人かの上級生に接触していた。それを彼が知ってたことが意外で、どうしてなのか疑問に思う。先輩は他人に興味がないはずじゃないのか? だから自分に干渉してくるオレの存在は目障りだし、関わるつもりがないから名前も聞いてこなかったんだろう?
「俺の過去を嗅ぎまわって、それでどうしたいんだ?」
「どうって……それは」
別に何がしたいって訳でもない。ただ理由が知りたかっただけだ。それなのに先輩とその人の事を聞けば聞くほどモヤモヤした気持ちは溜まるばかりで、胸の痛みは消えなかった。
どうしたいのかなんて、オレの方が知りたいくらいだ。
「突然現れて、迷惑もお構いなしに毎日のように押しかけてきて。放っておけば好き勝手にして……、お前は、何が望みなんだ?」
思いがけず強い力で引き寄せられると、一瞬にしてその腕の中に抱きしめられていた。
ふわっと空気が流れて、自身を取り巻く香りが彼からのものだと思うと、昼間に感じたのとは比べようにならないほどズキズキと胸が痛みだす。
「……な、にを」
考えもしなかった彼の行為に、オレは混乱していた。見上げると間近に彼の顔があって、咄嗟にその胸を両手で押し退け距離を保とうとする。
「知ったのなら……お前まで、逃げるなよ……」
先輩の言葉が耳元に聞こえて、それが呪縛かのように動けなくなる。
影が見上げるオレの上に落ちてきて、柔らかいものが唇を塞いだ。
荷物が床に落とされて、彼の手が器用に片手だけでオレのシャツをズボンから引き出す。裾を捲り上げた素肌に自分のとは別の温もりを感じて身体がピクンっと跳ねた。
彼のもう一方の手はオレの頭を支えるように添えられていて、キスから逃れられないでいる。息をするのもやっとの口の端から、つぅっと唾液が一筋零れ落ちるのがわかった。
「せんぱ、い……」
不意に足を払われて、姿勢を崩したオレはその場に倒れ込んだ。身体の上に先輩が乗り上がって、自分のネクタイを緩めて外すとオレの右手に巻きつける。抵抗をものともせず力づくで頭上に持ち上げられると、ピアノの脚に固定された。
「え、……あ、……何すっ」
「これでもう、逃げられない」
彼は仄暗い笑みを浮かべると、身動きのできないオレへとその手を伸ばした。
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